高野山真言宗吉祥山西方院は、神戸市垂水区にある、樹木葬などのご供養や地蔵盆などの行事を行うお寺です。
元は、多聞寺の塔中として建立される。
延元之年(一三三六)西国の乱で兵火にあい焼失するも、
貞享年間(一六八四~一六八八)住職増詳の代に明石の大富豪 柏木源冶良(かしわぎ げんじろう)氏の寄進により再建され現在に至っている。
明治維新まで朱印地として寺領二十七石を有していた。
(西摂大観より)
この地域一帯は昔、多聞村と呼ばれ、60戸程の家が集まる小さな村でした。
この多聞村は時代とともにお寺を中心に変化してきました。
戦国時代、多聞村は23坊(僧の住む家)の塔頭寺院を構える
僧侶の村でした。しかし、当時豊臣秀吉に敵対していた毛利方の
別所長治に攻めた三木城攻略の際に、
多田寺が協力した為に、秀吉が三木城を攻めた際、兵火によって20坊が焼かれることになりました。
そのうち、3坊だけが残りました。
一つは兵庫に移設したため、実際に残っているのは現在2坊(多聞寺と西方院)のみとなっております。
昭和30年代中頃まで坊跡を中心とした静かな村でしたが、
その後、昭和40年ごろから急速に団地開発が進められ、現在に至っています。
鎌倉時代、多聞寺の塔頭として建立されました。
延元之年(一三三六)西国の乱で兵火にあい焼失するも、
貞享年間(一六八四~一六八八)住職増詳の代に
明石の大富豪柏木氏の寄進により再建され、現在に至っています。
明治維新まで朱印地として寺録二十七石を有していました。